月曜の朝。ひときわ大きなくしゃみをして、私はひとりほくそ笑んだ。
素晴らしい。完璧な体調不良だ。
結果は確信していたが、病院へ行き、医師によるお墨付きも得た私は、病院を出るなり、しゃがれ声で職場に連絡した。
「すみません、やはりインフルエンザでした。申し訳ありません。今日は会議だったのに、私の代わりに出ていただくことに……はい、お気遣いありがとうございます。今週いっぱい、療養いたします」
失礼します、と電話を切ったその足で、私は次なる目的地へと向かった。仮病ではないため、歩くとほんの少しの距離でも息が切れる。
その店は、コンビニと商業ビルの間の、狭い路地を通り抜けた先にあった。
袋小路になっているところに一軒だけ建つそこは、古びた薬局のような外観をしている。張り出した軒に看板はかかっているが、字は掠れて読めなくなっていた。
ガラス張りの戸をスライドさせて店に入ると、正面のカウンターに立っていた眼鏡の店員が、「いらっしゃいませ」と背に定規を入れているかのようなお辞儀をした。
「ご来店をお待ちしておりました。いかがですか? お身体の具合は」
「最高です。いや、違うな。最悪です」
奇妙な言い回しが面白く、咳き込みながらも顔がにやついた。
「それで、またこの病気を売りたいのですが……」
「お預かりですね? 構いませんよ。インフルのお客様は、皆様そうなさいますから」
そう言うと、店員はカウンターに、心理学で有名なルビンの壺のような形をした容れ物を差し出した。
「B型インフルエンザですね。五千円でお受け取りいたします。マスクを外して、こちらの容器に息を吹き込んでください」
言われた通りにすると、火照っていた頭部から熱がすっと引いて、鼻詰まりも、喉の痛みも嘘のように消えた。
信じられない。しかし私の鞄には、先ほど医者から受け取ったインフルエンザの診断書が入っている。
これで一週間、私は健康体で、合法的に会社を休めるのだ。
私がこの店に初めて訪れたのは、ひと月前のことだった。
クリスマスを前にして、私はインフルエンザにかかってしまった。
我が家は毎年、クリスマスは家族で高級レストランのディナーを楽しむことにしている。一年頑張ってきた自分へのご褒美として、ずっと前から予約して楽しみにしていたというのに、よりによって、何故この時期に。
医者から受け取った無慈悲な診断書を手に、私は絶望して、病院からの帰路をふらふらと歩いていた。前から歩いて来た健康そうな親子連れさえ、憎々しく感じられる。
―ああ、もし他の人間にうつすことで、病がこの身から綺麗さっぱりなくなるのなら、喜んでそうするのに。
そんなことを思った刹那、私は、件の店に続く路地を見つけたのだ。
「いらっしゃいませ。病のお預かりですか?」
入店するなり、眼鏡の店員にそう問われて、私は眉をしかめた。
「病を、預かる?」
熱のせいで聞き間違えたのかと思ったが、そうではなかった。
「診断書を拝見します。ああ、インフルエンザですね。それでしたら何も問題ございません。当店はインフルエンザ、百日咳、マイコプラズマ肺炎といった飛沫感染する病の取り扱い店でございます。お客様はB型インフルエンザですので、お望みであれば五千円で、当店がその病をお受け取りします」
彼が何を言っているのか、熱で頭が回らず、半分も理解できなかった。しかし、五千円払えと言われるならともかく、店の方が五千円払うのだというなら、こちらが損をすることはないだろう。薬代だって安くはないのだ。私は朦朧とする頭で「構いませんが」と答えた。
そして、差し出された奇妙な容れ物に、言われた通り息を吹き込んだ。
すると、どうしたことだろう。
私の身体を蝕んでいた熱は、容れ物の細いくびれの奥に吸い込まれるようにして、すっかり消えてしまったのだ。
私は驚いて、店員に心からの謝辞を述べた。
「これはすごい。どうなっているんだ。最先端の医学ですか? それとも化学?」
「医学でも化学でもありません。これはビジネスです。当店は、お客様にとって不要な病をお受け取りしただけですよ」
「ビジネス……とすると、もしかして、あなた方は病気を売ることもあるのですか?」
「お引き渡しですね? ええ、勿論。もしお客様が、どうしても病気にかかりたいという時がございましたら、ただ今お客様からお預かりしたインフルエンザを、当店からお引き渡しすることが可能です。お預かりが五千円でしたので、お引き渡しに必要な金額も五千円になります」
一度売った病気を、わざわざ買い直すなんて変な話だった。
しかし、成程。これは確かに良い話だ。
要は、この店を利用すれば、病気にかかる時期を自由に操作できるのだ。
出たくない会議、面倒な客の接待、公共交通機関に見放された僻地への営業。そういう日はインフルエンザを買い戻せば、「やむをえず」会社を休むことが出来るのだ。風邪なら無理をしてでも出て来いと言われることもあるが、感染症ならそういうわけにもいかないだろう。
そう思ったが、店員は「ただし」とつけ加えて言った。
「恐れ入りますが、お客様が当店を一歩でも出られますと、当店に関する記憶は消えてしまいます」
「えっ、それじゃあ、病を買いたくなっても、この店に来ることが出来ないということですか?」
「それについては、ご心配には及びません。もしお客様が真に必要に迫られたなら、自然と当店のことを思い出されるはずです。もし思い出されることがなければ、それは真に必要とされていない証拠でしょう」
またのご来店をお待ちしております、と言われて、私は店を出た。
そして私は、その店のことや、そこで交わしたやりとりを、本当に一年間忘れてしまっていた。
思い出したのは昨日のこと。週明けの会議にどうしても出たくないと渋い顔をしていると、不意に、この店の記憶が蘇った。私はすぐに家を飛び出して来店すると、インフルエンザを購入したのだ。
今までの人生で、学校や会社に行きたくない時に仮病を使ったことはあったが、私は演技がそう得意ではないので、電話越しにも自分の嘘が見透かされているような気がしていた。しかし、この店で病気を買えば、本当に体調が悪いのだから、そんな後ろめたさは感じなくて済むというものだ。
会社への電話も終えて、滞りなくインフルエンザを売った私は、上機嫌で店を出て、また記憶を失った。
さらに一年余り経ったある日、私は、みたびあの店のことを思い出した。
小学生の娘が、インフルエンザにかかったのだ。
予防注射は打っていたが、それでも三十八度の高熱を発していた。熱で苦しむ娘を抱いて病院へ向かう途中、私は店のことを思い出して路地へ駆けこんだ。
「いらっしゃいませ。おや、いつぞやの。本日は何のご用事でしょう」
「見れば分かるでしょう。娘のインフルエンザを買ってください!」
私は必死に訴えた。しかし、店員は困ったように眉を下げた。
「申し訳ありませんが、当店は代理人を介しての取引はお断りしております」
「代理人って、娘に直接話せと言うんですか? こんなに苦しそうなんですよ」
「規則ですので。我々は、ご自分の病を人にうつしても構わないと心から願う方としか、取引をいたしません」
遠回しに自らの性根が悪いと言われたようで不愉快だったが、事実そうなので返す言葉もなかった。
「で、では、また私に、インフルエンザを売ってください」
今日は幸い日曜日だが、明日は看病のために仕事を休む必要がある。しかし、うちの会社に限ってか、他の会社もそうかは知らないが、看護休暇というのは仮病と同等に疑われやすいものだ。それならいっそ、ここで私自身がインフルエンザにかかった方が、会社を休みやすいというものだった。いつかのように、一度病気にかかって、医者に診断書を貰ったら、またインフルエンザを売ればいいのだ。そうすれば心起きなく娘の看病が出来る。
しかし店員は、これにも首を横に振った。
「申し訳ありませんが、インフルエンザのお引き渡しはいたしかねます」
「どうしてですか? まさか品切れというわけはないでしょう?」
「品切れという表現には語弊がありますが、状況は似ております。お客様のインフルエンザは、すでに流してしまいましたので」
「流す?」
妙な言葉に眉をしかめると、店員は「ご説明しておりませんでしたか?」と尋ね返してきた。
「当店は小売店ではなく、感染症の『質屋』です。お客様からお預かりしたインフルエンザは、お預かり期間が過ぎたため、流してしまったのです」
「流すって、一体どこに」
尋ねると、店員は「どこにと申されましても」と、私の腕の中で浅い呼吸を繰り返す娘を見つめ、目を細めて微笑んだ。
「どうして冬になると、日本中でインフルエンザが流行るのか、考えたことはありませんでしたか?」
了
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