阿蘇からの伏流水が湧き出た清冽な水をたたえるお庭は、細川家の砂取邸の庭園です。熊本藩10代藩主細川斉護の正室顕光院(益)は、この風景を愛でながら晩年を過ごしました。明治10年(1877)の西南戦争後、砂取邸は一門の細川内膳家の邸となりましたが、大正末期から戦前にかけては料亭江津花壇として、多くの文人に親しまれました。
庭園は、季節ごとにさまざまな表情をみせてくれます。春には梅や桜、初夏の蛍、秋の見事な紅葉、冬には幻想的な朝靄(蒸気霧)も。細川家の庭園の姿をそのまま遺すお庭をぜひゆっくりとご堪能いただければと思います。
細川家の記録によれば、顕光院(益)は文化3年(1806年)11月11日生まれで、8代広島藩主の浅野斉賢の娘です。文政10年(1827年)11月6日に10代熊本藩主の細川斉護と結婚し、江戸にある熊本藩の上屋敷へ入ります。斉護との間に寅、百代、勇の3子をもうけますが、勇以外の2子は夭逝します。万延元年(1860年)4月17日に斉護と53歳で死別し、顕光院と号し剃髪します。幕末には参勤交代制度の緩和に伴い、56歳で細川慶前正室の鳳台院と共に文久2年(1862年)12月から翌3年2月にかけて熊本に下向し、熊本城内の二の丸に住みます。そして明治4年(1871年)の廃藩置県をうけ、明治7年(1875年)4月に砂取邸へ転居。危篤の報に接した娘の勇姫と再会を果たし、明治8年(1876年)7月20日に68歳で没。8月3日北岡の細川家墓地に埋葬されました。