徳冨蘆花 原稿「蝉の音の間に」
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高群逸枝 原稿「平安鎌倉室町家族の研究」
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夏目漱石 句稿
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旧細川家砂取邸庭園の沿革
細川家砂取邸は明治6年(1873)10月23日に地鎮祓がおこなわれ、明治7年3月に竣工しました。明治7年4月には熊本藩10代藩主細川斉護の正室の顕光院(益)が入居します。 顕光院が明治8年(1875)7月20日に没した後、砂取邸は細川御内家の管理となりました。明治10年(1877)の西南戦争の際は、細川家の家政所が北岡邸から砂取邸へ移り、益城郡や阿蘇郡に疎開した細川護久の娘の志津・宜・喜寿の三姉妹の支援拠点となり、旧臣らが集まっています。そして、同年3月23日から27日の戦闘で牧崎邸を失った細川内膳家が熊本攻防戦後に転居してきます。内膳家は大正11年(1922)6月まで暮らしますが、干拓事業の失敗により旧熊本藩士の六車初次郎に砂取邸を売却します。六車氏はこの地で料亭「江津花壇」を開業して繁盛させましたが、昭和17年(1942)の贅沢禁止令で廃業となり、旧砂取邸は三菱重工業(株)熊本事業所に付属する三菱江津荘となります。昭和20年(1945)の熊本空襲では別棟の大広間が焼失しました。昭和23年(1948)には料亭「新茶屋」が一時借受けし、昭和24年に(株)井関農機が旧三菱重工業(株)熊本事業所の用地を工場用地として入手すると共に、井関農機江津荘となりました。昭和47年(1972)には建物が解体され、江津ガーデンボールが建てられましたが、昭和55年(1980)に廃業、建屋が解体されて更地となりました。そして、その後県有地となって昭和60年(1985)10月16日に熊本県立図書館となりました。 このように、顕光院没後の砂取邸は、西南戦争で被災した細川内膳家をはじめ、所有者が何度も変わりますが、萱野仙游(天真斎)が造園したとされる湧水を生かした創建当初の回遊式庭園と敷地境の土塁が今も現存しています。
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開館時間 | 9:30~17:15 | 休館日 | 火曜日/毎月最終金曜日 年末年始 (12月28日~1月3日) 特別整理期間 (年間14日以内) | 入館料 | 無料 |
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